カーエアコンの黎明期【車屋四六】

コラム・特集 車屋四六

日野コンテッサやパブリカが登場する61年頃から、日本に乗用車の大衆化が始まるのだが、一方でクラウン→セドリック→いすゞベレル→三菱デボネアなど、法人向け大型車(外国なら中型)が登場するのも、時代のニーズだった。

それは日本経済が立ち直り、外国からの乗用車製造技術学習も終わり、一人前の乗用車を自力で開発、生産出来るようになったということの証拠だった。

が、同じ頃、同じ敗戦国でありながらドイツでは、ダイムラーベンツ社が、創立七五周年祝賀行事として、自動車博物館を建設。三階建て3530㎡に1885年から現在までの車を展示というのだから、こと車に関して歴史がない我が国とは、随分違うものだと感心したのを憶えている。

さて話しを本題に。60年代の日本に車大衆化が始まった頃、カーエアコンが登場したが、いまのエアコン/ACとは違う単なる冷房装置だった。
それはキャデラック、リンカーン、クライスラーというような米国製高級車、といっても全部ではなく、一部の高級バージョンだけが標準装備していた。

当時そんな高級車のユーザーは、大企業経営者か高級官僚と大臣、成金だった。もっとも、米国では大衆車のフォードやシボレーでも、日本では高級車として認識されていた。

そのころ欧州車で人気が出始めたのがベンツ220S。が、当時は外貨不足で輸入禁止時代だから、輸入禁止前にヤナセで230万円ほどで買えた220Sが、500万円にも高騰した。

いずれにしても、そんな高価な車が買える連中だから、購入後にACを装着する。そんなACには、小型車用のアンダーダッシュ型、大型車用のトランク型の、二種類があった。

後付けACは、初め輸入品ばかりだったが、直ぐに日本製が登場する。小型用15万円、大型用25万円ほどに、取りつけ工賃が10万円ほど必要だった。

取り付ければキャビンは涼しくなるのだが、生まれたばかりのACには不具合も多かった。
先ず電磁クラッチでON・OFFするコンプレッサーの、接・断の瞬間に、車全体がブルンと身震いするのが不快だった。

また鉄の塊みたいな重いコンプレッサーは、エンジン側面に装着されるが、取り付けた側が重くなり、しばらく走ると、右前輪コイルスプリングがへたってくる。
すると、へたった側に車が傾き、左右アンバランスになる。で、へたった側のスプリング上部に座金を噛ませ車高を上げて、水平に修正したこともある。

また、欧州車はラジェーター容量が少ないので、AC装着でオーバーヒートに悩まされる。なにしろ容量が少ないラジェーターの前に冷媒用冷却器が重なるのだから、当然である。

私の工場で木下産商のベンツ220Sに東芝製ACを装着→オーバーヒートの苦情→ラジェーター屋の「厚いラジェーター造り交換したら」で解決したら、運転手から「快調」の嬉しい報告と引換えに、総務課長から苦情「給油所の請求金額が倍増」というのだ。
運転手は「あたりまえ」と笑う「料亭で主人を待つあいだ周りの運転手が皆うちの車で涼んでいるのだから」。当時AC後付けの車は、駐車待機中アイドルでのAC使用は不可能だったのである。

トランク型は大きなトランクを占領するので不評だった。
が、後の窓から冷気を吹き出す二本の樹脂製ホーンは、ステイタスシンボルでもあった。