【車屋四六】ハドソン

コラム・特集 車屋四六

二〇世紀初頭に実用化された飛行機は、ドーバー海峡を何時?誰が?横断するか、が当時大きな話題で、初横断飛行に2万5000フランの賞金をデイリーメイル社がかけた。
1912年、その賞金を頂戴したのは、フランス人ルイ・ブレリオ。

12年は明治42年。そんな年に産声を上げたのがハドソン社だから、アメリカでは老舗中の老舗である。
各分野のエキスパート6人で始めた会社の親分格が、デトロイト名門百貨店のオーナー、J.L.ハドソンだった。
以来、ハドソンは20年代、30年代と順調に発展を続けて、GM,フォードに次ぎ、アメリカ三番目の大メーカーに成長する。

ハドソンの名が市場から消えたのは57年だが、54年の合併でアメリカンモータース/AMCの一員になったので、AMCの1ブランドという扱いに落ちぶれてしまった。

写真(上)は、九州自動車博物館で見つけた53年型ハドソン・ホーネットSIXクラブクーペ。ハドソンが元気だった頃の作品である。
ホーネットはホイールベースが長い最上級シリーズで、ツードア&フォードアにセダン&クーペ、ハードトップ、コンバーチブルで、53年は2万7208台販売。写真のクーペは2446ドルだった。

ハドソンのインテリア

日本の代理店は、戦前からの老舗、赤坂溜池の日本自動車。手元にある52年の販売価格表によれば、3525ドル+輸入諸掛かり1036.7ドル+税金1088.53ドル=5650ドルとある。
当時の円ドル為替レートは360円/ドルだから、日本円換算は203.4万円になる。

いまでは販売価格表示だけだが、当時は、内訳明細も表示で明朗会計だった。安いと思ってはいけない、52年当時は大卒初任給6000円の頃だから、庶民には縁がない輸入外国車だったのである。

WWⅡが終わって、戦前の金型で生産再開は他の老舗と同様で、斬新フラッシュサイドの戦後デザインになったのが、48年。
そしてフェイスリフトして54年まで使い続けたのは、売れ行き低下の財政悪化のせいだから、このスタイリングはハドソン社時代では、戦後唯一、最初で最後の晴れ姿だったのである。

戦後初期ハドソンと合併後のハドソン

53年型ホーネットは、全長5213㎜、車重1600kg。ハドソン名物の直列八気筒が前年に消えて、V8でなく一気に直六になったのも開発費倹約のためだったろう。

形式もサイドバルブのままで、4928ccは圧縮比7.2で145馬力、160馬力、170馬力の三種。ホーネットは最上級グレードだから、当然170馬力が搭載されていただろう。

50年代、本土が戦場にならない戦勝国アメリカは、世界の富が集まったかのように輝いていたのを象徴するように、メッキだらけの車体もピカピカと輝いていた。
もちろんメッキは高級車ほど多用されていた。

ハドソンもメッキだらけだが、ラジェーターグリルはイニシアルのHのモディファイ、その上部の小さな三角バッジには伝統の文句{ルック・フォーザ・トライアングル}の文字が誇らしげだった。

メッキだらけはインテリアにも及び、当時定番のホーンリングにはじまり、健在の三角窓、そこら中メッキだらけだった。
この時代ATは未だオプションで、ハドソンはハイドラマチック型で、追加費用176ドル。コラムシフトのハンドルポスト中央上部にシフト表示インジケーターが付いていた。そろそろパワーブレーキもオプション時代に入っていたが、マニュアル標準時代らしく、ブレーキペダルは小さいまま共用されていた。