【車屋四六】オペルの雨蛙

コラム・特集 車屋四六

オペルはドイツの二度の敗戦から、二度ともベストセラーで立ち直りに成功している。WWⅡではオペルレコルド、WWⅠではオペルラウプフロッシュである。
ラウプフロッシュとは、ドイツ語で雨蛙。ニックネームの由来は、ボディーカラーが雨蛙そっくり、緑色だったからだ。

文明開化の頃登場の乗合馬車に円太郎馬車なるニックネームが付いた。ニックネームはひょんなことから生まれるもので、落語家橘屋円太郎の御者の真似の人気が語源だった。
やがて関東大震災で東京の交通機関が壊滅した時、11人乗りフォードT型バスを1000台走らせてしのいだ。バスの形が円太郎馬車に似ていることから円太郎バスの名が生まれる。

円太郎バス。関東大震災復旧で急遽登場したフォードT型バス

円太郎バス誕生の大正13年/24年は雨蛙誕生と同じ年。雨蛙の正式名は、オペル4/12PS。直四サイドバルブ951cc・12馬力・前進三速で最高速度60㎞・燃費20㎞/ℓ。価格4500マルクで月産25台。

青蛙は発売直後から好評だったが、突如災難に巻き込まれる。10万マルクという巨額保証金を積んだシトロエンの訴訟だった。
訴訟理由は{我が社のベストセラー5CVのコピー}{姿がそっくりだから文字が読めない客が間違える}だった。

シトロエン5CV/1922。登場時は黄色だが後年塗色が増えて写真は26年モデル(パリのシトロエン収蔵庫で

裁判は、一、二審棄却されたが、最高裁でオペルの勝訴となる。
判決{シトロエンは黄色・オペルは緑・文字が読めなくても間違えることはない}だった。

ラウプフロッシュが斬新企画で誕生したのは、社主ウイルヘルム・オペルの大英断。WWⅠ開戦前に渡米、フォードの量産システムに驚嘆したオペルが、新型車を量産でと決意したのである。

ちなみにオペルは、WWⅠ、WWⅡ、両大戦開始前は欧州最大の自動車メーカーだった。敗戦のWWⅠ直後のオペルは、戦前型で生産再開したが、22年頃「少量生産の高級車時代は当分来ないだろう」との判断で、量産小型車の開発を決意したのだ。

それは重役達の猛反対を押し切っての決定だった。
「ドイツ流高精度な手作業こそがオペルにふさわしい車・流れ作業で生まれた量産品など受け入れられないだろう」というのだ。

が、問題もあった。敗戦国のドイツ経済がドン底で、自動車業界の三分の一が倒産する25年の直前だから、新車開発・工場改装・材料の手当など先立つものの手当が、という心配もあった。

が、オペルには裏付けがあった。戦前、輸出で稼いだ膨大な利益を、戦勝国にドル預金していたから、ドイツのインフレなんかクソ食らえ、目減りもせずに、豊富な資金が使えたのである。

敗戦国ドイツの経済状態は悲惨だったが、第二次世界大戦後と同様、戦勝国の自動車生産は好調で、ドイツで倒産連発の25年の世界自動車全保有台数2765万台。
フォードT型は1000万台目をラインオフし、量産効果が進んで、850ドルだった新車価格が250ドルまで下がり普及を促進。
栄光の年産50万台、雨蛙で喧嘩を売られたシトロエンも、一社で20万台生産と、戦勝国メーカーは軒並み好調だったのである。