【車屋四六】タテ目のメルセデス 

コラム・特集 車屋四六

 WWⅡで敗戦国になったドイツの名門ベンツは、戦後を取りあえず戦前型で市場に復帰、戦後開発の新型車が登場するのは、終戦から9年後の1954年のことだった。

そのスタイリングはアメ車の影響が強く、泥よけがないフラッシュサイドボディーが特徴だったが、一気に換える勇気はなかったようで、リアフェンダーに僅か泥よけの痕跡が残されていた。

当時ベンツにまで影響を与えた、ジェット戦闘機イメージを取り込んだ米国カースタイリングは、益々精悍にエスカレートして、テイルフィン全盛時代に向けて発展を続けていた。
ちなみに、当時米国のジェット戦闘機はF86セイバー時代だが、後継機ロッキードF104が試験飛行を終えて、マッハ2時代に突入した頃である。

次期モデルではアメリカ市場重視でテイルフィンが付いていた

ベンツの完全フラッシュサイド化は、フルモデルチェンジで、ヘッドライトがタテ目になった59年から。
日本ではブルーバードが登場、ホンダから世紀の傑作二輪車スーパーカブが、国内人気の余勢を駆ってアメリカに輸出を始めた年。
“最後の有人戦闘機”と呼ばれたF104は、日本航空自衛隊が次期主力戦闘機と決定した。

バンケル式ロータリーエンジンと呼ぶ新型エンジンを搭載したコスモスポーツが、マツダから誕生した67年に、タテ目のベンツはフルモデルチェンジする。
新モデルでもタテ目は継承されたが、伝統の格子型ラジェーターグリルが横幅を増加して扁平になり、時代的に進化を遂げる。

コンパクトメルセデスという呼び方が定着したのもこの頃で、後輪懸架が斬新なセミトレ-リングアーム方式になり、しなやかな乗り心地と強かな操安性を印象づけた。

翌68年になると、お洒落なパーソナルセダンとクーペが登場。その写真は69年晴海の外車ショーと記憶するから、出来たてのほやほやを日本に持ってきたことになる。
すでに日本市場が重視され始めていたのである。

写真は250CE。ちなみにCはクーペ、Eは燃料噴射を表す記号。いずれにしてもクーペは、パーソナルユース目的のスポーティーが持ち味だから、Eでない車もキャブレターが二連装だった。

ツインキャブの130馬力に対して、燃料噴射の方は150馬力と歴然の差があり、加速抜群。といっても当時のゼロ100加速は13秒ほど、それでも俊足と云われ、最高速度は180㎞だった。

この時代、コンパクトメルセデスは、200・200D・220・230が四気筒で、250だけを六気筒で差別化していた。いずれにしても、ベンツは重要なアメリカ市場重視で馬力強化に力を入れていた。

250CEの直六は2496cc。全長4680㎜、全幅1770㎜、全高1395㎜。ホイールベース2750㎜。車重1395kg。
当時はアメリカの影響で、コラムシフト時代だが、CEはスポーティーさの表現でフロアシフト、そして木目でインパネを飾り「俺は高級だ」と主張しているようだった。

この時代、欧米に追いついた日本の車造りも個性化が必要になり、サニークーペやカローラスプリンターのようなスポーティームードが売りの車が登場する一方で、ローレルやMK-IIのような個人向け高級車も誕生、更に117クーペというような贅沢なスペシァリティーカーの登場する時代が到来していた。

筆者愛用ベンツ219型/戦後開発の初代。同じ六気筒でもヤナセ輸入は贅沢仕様の220型(219は日本に一台のみ/元オーナー川喜多東和映画社長