【車屋四六】プリムス1957年型

コラム・特集 車屋四六

手前ごとで恐縮だが、写真(上)は父の葬儀の日、これから火葬場に出発という場面。一台目、二台目とプリムスが続いているが、父の友人達の車である。

プリムスは、その頃元気一杯だったクライスラー社の大衆車で、大量生産されるドル箱的存在の乗用車だった。ちなみにク社は、高級クライスラー、中級デソート、そしてプリムスの三本立て。
ちなみに写真の57年のプリムスの生産量は、実に75万4793台と、いまのクライスラー社では想像も付かない生産量だ。

当時プリムスの車種構成は、廉価版からプラザ→サボイ→高級なベルベデア。乗用車がホイールベース118インチ(2950㎜)で、サバーバンと呼ぶステーションワゴンが122インチ(3050㎜)。
そして乗用車の各シリーズには、ツードアセダン、フォードアセダン、クーペ、コンバーチブルがある。

ちなみに57年型各シリーズの生産量は、プラザ12万2259台、サボイ24万7657台、ベルベデア28万584台。サバーバン10万4293台だった。

その時代のアメ車は、50年代初頭からはじまったジェット戦闘機やロケットのイメージを取り込んだスタイリングの全盛期だから、57年型プリムスのテイルフィンからは、ジェット戦闘機の垂直尾翼が連想されるはず。
写真のテイルフィンを虫眼鏡で見ると“SAVOY”とあり、このフォードアセダンは、15万3093台生産された内の1台と云うことになる。

後方のプリムスはアメ車では標準的左ハンドルだが、前のは右ハンドルだから、こいつは珍しい。
当時は未だ大英帝国健在で、世界各地に植民地統治領があり、そこは左側通行だから、アメリカ車も、その地域向けに右ハンドルを造っていたのである。

写真(上)の右ハンドルのプリムスは、そんな地域向けの1台だったのだろう。友人の家にあった右ハンドルの52年型ポンティアックは香港仕様で、当時の輸入業者朝日自動車に届いた状態は木箱入りの梱包で、甲板上で潮風に痛まぬようという説明だった。

57年型サボイエンジンは二種。戦後開発のV型八気筒OHV4800cc215馬力と、戦前開発の直列六気筒SV(サイドバルブ)3680cc132馬力とあり、写真ではどちらか判らない。
ついでに全長5115㎜。車重1523kg。直六の値段は2194ドル(当時の為替レートは$1/360円)。ちなみにプリムスの価格構成は、$1899~$2777)だった。

フィンが大きな57年型に対して、僅か一年前の56年型プリムスでは未だ控えめだったことが判る

ラップアラウンド型と呼んだ大きく回り込んだフロントウインドー、四灯式ヘッドライト、そして大きな尾翼が斬新で人目を引いた。大衆車とは云えぬ貫禄の容姿。“3り1364”のナンバープレートに“品”の漢字が未だ無い頃である。

話題のプリムスが生まれた57年に日本にもテイルフィンが登場した。プリンスの新鋭スカイラインである。
同じ年に登場したダットサン210型やトヨペットコロナ(初代)は、まだ自動車後進国らしいダサイ姿だったが、軽自動車フジキャビンの容姿は斬新だった。

57年、東京都に糞尿処理用のバキュームカーが登場した。
当時の東京は未だ水洗便所が少なく、汲み取り便所が沢山だった。で、溜まると長い柄の柄杓(ひしゃく)ですくい木製の樽に入れる。それを二樽両端に掛けた天秤棒を肩に、路地から表の搬送車まで運ぶ姿を、大都会の真ん中でも、よく見かけたものである。

アメリカンスタイルに傾倒した二代目グロリアのテイルには、当然のように大きなフィンが目立っていた