【車屋四六】懐かしきマーキュリー

コラム・特集 車屋四六

ラスベガスの博物館で見つけたマーキュリー(写真上:4000万台目のマーキュリー53年型コンバーチブル)。横腹に“40.000.000th”の文字。その下に“FORD MOTOR CONPANY VIECLE BILT IN USA”の但し書きが。

ということは、フォードがマーキュリー1号車をリリースしたのが03年で、53年にその累計が4000万台になり、その記念すべき車が1953年型マーキュリー・モントレー・スペシアルカスタム・コンバーチブルということなのである。

キャデラックがGMのフラグシップカーであるように、フォードではリンカーン。そして高級車リンカーンと大衆車フォードとの間を埋める中級車というのがマーキュリーの位置づけである。

何度も書いてきたことだが、WWⅡが終わって、戦後登場の新車のほとんどが戦前の金型で生産再開の、いうなれば戦中の5年間をタイムスリップして登場した新車だった。

もちろんマーキュリーも例外でなく、戦後開発の新型に衣替えは49年。それは泥よけがないフラッシュサイドボディーが話題を撒いた、49年型フォード登場の、僅か2ヶ月後だった。

戦後開発の姿に衣替えしたマーキュリー。フォードの高級車リンカーンのイメージにつながるスタイリングである

49年という年は、日本に正村という台が登場して、大人のパチンコ時代が始まった節目の年だ。
ちなみにパチンコという言葉も機械も戦前からのものだが、わたしが子供頃は駄菓子屋にあって、一銭入れて出てくる大きな玉を、レバーや棒を操作して穴に入れる。入った穴により出てくる菓子が、安かったり高かったりという、胸ワクワクの機械だった。
正村のは、レバーで玉をはじくと、あとは玉の進路を変える釘に運を任せるという、射幸心が強いものだった。

さてラスベガスの52年型マーキュリーは、もちろん戦後型だが、フォードのような完全なフラッシュサイドではなく、リアに戦前の面影を残すフェンダーの痕跡が残されていた。
が、全体の印象はリンカーン寄りだから、フォードの中級というよりは、リンカーン寄りの高級感を演出したかったのだろう。

ちなみに53年型の人気をチェックすると、15万6339台生産で、写真のコンバーチブルが8463台とある。当時人気のハードトップ7万6119台で、フォードアセダン6万4038台を上回っている。ついでにフォードア・ステーションワゴンが7719台。ちなみに写真のモントレーは最上級車種である。

53年のマーキュリーの販売価格を参考までに。2115ドルから2776ドルで、モントレー・コンバーチブル2390ドル。
ついでに諸元も。全長5055㎜。車重1634kg。オプションのフェンダーカーバーで半分隠れた後輪のタイヤは、760-15インチ。

フォード伝統のV型八気筒エンジンは4086cc。戦前開発、有名なフラッシュヘッドと呼ばれたサイドバルブ型で125馬力だったが、54年型から戦後開発のOHV161馬力に換装されるので、53年型のエンジンは戦前型の最後ということになる。

当時の資料で、ラジオ、ヒーター、グリルガード、白タイヤ、そしてATはオプション装備。そのATは、マーキュリー自慢の前進三速型マーコマティック。ATはまだハシリの時代だったが、歯切れの良いシフト感だったと記憶する。主流はコラムシフト3MT。

そんな53年頃の日本はジャズの黎明期で、多くのバンドが活躍していた。原信夫シャープス&フラッツ、渡辺弘スターダスターズ、依田輝雄シックスレモンズ(ドラムス/フランキー堺)、ビッグフォア(松本英彦、小野満、ジョージ川口、中村八大)。
ゲイクインテッドのレイモンドコンデとフランシスキーコは帰化フィリピン人で、その演奏技術は日本のジャズマン達に大きな影響を与え、ナンシー梅木や松尾和子が唄っていた。
当時一流は、江利チエミ、雪村いずみ、ペギー葉山、宝とも子、ティーブ釜苑、柳沢真一、笈田敏夫、ジミー時田、黒田美治、等々。