【車屋四六】ダットサン1938年型

コラム・特集 車屋四六

ナンバープレート“5-61”。写真は多分56年頃のNDC主催のジムカーナ風景。全国の自動車登録が増えて、普通車3、小型車5などに分類されたが、未だ全国通し番号の時代である。

昭和31年購入わたしのボロボロのシボレー1942年型は3-1355。翌年買った1954年型オースチンA40は、小型車が少ないアメ車全盛の日本らしく5-8452、全国で8452台目の登録ということ。

近頃こんな競技は見掛けなくなったが、遠くの二本のポールを運転席から狭めさせ、通過できれば合格で、どれだけギリギリかを競うのだが、通れなければ失格となる。(トップ写真:NDC主催ジムカーナで狭いゲートを抜けようと必死の1983年型ダットサン・フェートン。右審判/左女性会員は巻き尺を手にしている)

NDCとは日本ダットサンクラブで、1955年10月23日創立。その前身は4月創立のオールドダットサンクラブで、1930年代のダットサンオーナーが集まった同好会だが、門戸を広げる目的でNDCの誕生となったのである。

さて写真のダットサンさんは、1938年型17型フェートン。
同年チャップリンの“モダンタイムス”という映画が封切られ、日本では、人気女優岡田嘉子が杉本良吉と樺太から手に手を取って、樺太からソ連領へ亡命して話題になった年である。

ダットサンは、WWⅡ以前の日本で量産され、小型車の代名詞的存在を誇った。30年代後半になると月産1000台体勢になるが、年々増加の生産が頭打ちになるのが38年。
戦争が近づき、8月になると事実上乗用車生産が禁止。が、前半の人気に支えられて統計上は3251台だが、40年の統計では897台と激減している。

この38年はダットサンには記念すべき年となる。5月26日に、通算2万台目をラインオフしたからだ。軍の方針だろう、当時の国産自動車は尺貫法で表示されている。
最高速度六五粁はいいが、全長八尺八寸、全幅三尺八寸で、七型エンジンにおいては、七二二立方糎米/二十馬力と表示されている。

1937年512型ダットサン・セダン。戦前最盛期の作で小型車といえば“ダットサン”の代名詞を生み出した車

この頃は世界に暗雲が広がり始めて、日本も刻々と迫る戦争に向かって歩いていた。輸入にしか頼れないガソリンが逼迫して、37年になるとアルコール専売制実施。揮発油アルコール混合法を発布、ガソリンに5%のアルコール混入が義務付けられる。それが、39年には10%に、40年には更に増量が指示される。

一方、ガソリン不要の代燃車奨励で、この頃から、バス、トラック、ハイヤー、タクシーなどの木炭車が急増していった。

37年7月になると、米英蘭(オランダ)が在外日本資産を凍結。アメリカは航空用揮発油と潤滑油の対日輸出禁止。日蘭印(印度)石油協定破棄。
というように日本の経済封鎖がエスカレートして、やがて軍国主義日本の堪忍袋の緒が切れるのである。

41年=昭和16年12月8日、真珠湾攻撃、南洋方面進軍で、必然的に日本も第二次世界大戦に仲間入り、太平洋戦争に突入するのである。
で、先ず日本軍が目指す目標が、南方の石油産出地域だった。

写真のフェートンは、ダットサン最盛期に生まれて、苦しい戦中を生き抜き、敗戦により再び訪れた平和な日本を走ることができた、数少ない日本製乗用車だったのである。
ちなみに戦後5年が経ち、NDC創立の55年=昭和30年に登録されていた全国小型乗用車の数は、14万5860台だった。(写真下:日産所有の1932年11型ダットサン・フェートン)