【車屋四六】ハドソン1920

コラム・特集 車屋四六

ハドソンといったところで、既に忘れられたブランドだが、かつては有名ブランドで、大統領の愛用車にもなった高級車。
ラスベガスの博物館で見つけた写真のハドソン・スーパーシックスは当時のベストセラー。売れ行き好調で、ハドソンがアメリカ第三位メーカーになるとまで予測させた車だった。

今ではポトマック河畔の名物は、明治42年東京市が米国首都ワシントンに苗2000本を寄贈して生まれた桜並木。そんなことがあった1909年に、ハドソン社は産声を上げた。

初期アメリカの自動車は、広大な国土を反映して、故障せずタフということが、車が売れる必要条件だった。
で、太平洋から大西洋までの大陸横断走破が企画されて、ライト兄弟初飛行に成功の03年(明36)に、パッカード、オールズモビル、ウイントンが、ニューヨークを出発、3500㎞を60日で走破してサンフランシスコに到着して、信頼性のアピールに成功した。(写真下:上の写真の展示車脇にある原本。特注ハドソンとオーナーのエンリコ・カルーソー)

業界では新参者のハドソンが、同じ手を使ったのも、当然の成り行きだった。写真のスーパーシックスは、アメリカでラジオの定時放送が始まった20年に、世紀のテノール歌手、エンリコ・カルーソーの注文に応じたカスタムメイドである。

ソプラノ歌手・三浦環は、日本初の国際的プリマドンナだが、15年、ロンドン公演の蝶々夫人が好評で、欧米各地で公演すること2000回を越え、アメリカでは大御所カルーソと共演したというから、写真のハドソンに一緒に乗ったであろう事が想像される。

16年に誕生したスーパーシックスが、大陸横断チャレンジに成功したのは17年。そんな大正5年は、日本のオカミが風俗問題に首を突っ込み始めた頃だった。
御承知のように上野は芸術のメッカだが、谷中警察署が裸の絵画彫刻の展示を禁止。映画の検閲を始めたのもこの頃。また、映画館の客席を、男女分離したとも聞いている。

ハドソンの大陸横断は、往路5日と3時間半、復路が5日と17時間という快記録だった。で、ユーザーからの信頼を得たスーパーシックスは、誕生した16年より30年まで、14年間も変更無しに造り続けられたそうだ。

スーパーシックス最後の年の30年、アメリカでは旅客機内でサービスをする女性、いわゆるスチュワーデスなる職業が誕生する。

一方、昭和5年の日本は、経済不況のどん底で流行語が“エログロ・ナンセンス”。オノボリさんが全国から集まる東京の名所、浅草のレビューに警察が規制を課した。
1腰を前後に揺するな。2客に向かい継続股を開くな。3乳房より下方を露出するな。4股下二寸より短きズロースを履くな(二寸=6㎝)。5和服での舞踊時に短いズロースを履くな。

今時こんな規制をしたら、さぞかし愉快なことになるだろう。砂浜のピチピチギャル、ヘソ出しルックで闊歩する女達や女性アスリート、雑紙グラビア、AV映画、漫画、等々すべて全滅である。

インペリアル自動車博物館のパンフ:もちろん一階は大賭博場で上階は客室という大きなホテルだ