【車屋四六】フィアットFRからRRへの大変身

コラム・特集 車屋四六

何処の自動車生産国にも、大衆に愛されるロングセラーがあるものだ。アメリカのT型フォード、ドイツのフォルクスワーゲン、イギリスのオースチンセブン、イタリアではフィアットだ。(写真左:持ち主はマニアだろう近所のアバルトマークを貼った東麻布の修理工場で。素敵なコンディションのフィアットだが600?500?。)

フィアット・チンクエチェント、イタリー語でチンクエチェントは500だから、500ccの超小型大衆車。可愛らしい姿から生まれた愛称で、トポリーノ(二十日鼠)とも呼ばれている。
誕生はWWⅡの前、日本職業野球の東京読売巨人軍を倒すために生まれた大阪タイガース(猛虎)誕生の35年(昭10)だった。

トポリーノは戦争を挟んで、20年間も続いたロングセラーで、55年にフィアット600にバトンタッチする。(写真上:戦前の初代フィアット500トポリーノ・前開きドア、スライド式窓、腕木式方向指示器。エンジン後方にラジェーター→放熱効率向上目的でボンネットに多くのスリット。)
同年、日本では日本初のロケット発射に成功するが、ちっぽけなペンシルロケットと呼ぶ超小型。東大生産研究所の糸川英夫博士開発した指先ほどの小さいのが水平に飛んだだけ。が、これが後に国際的に知られる日本製固形燃料ロケットの第一歩だったのだ。

日本人が認識するフィアットは、大きな自動車会社くらいだが、航空機、鉄道車輌、事務機&用品、製鋼所から原子炉まで、幅広く活躍するイタリア最大の企業なのだ。

戦前、その飛行機部門から、後に鬼才と呼ばれるダンテ・ジアコーサ博士が移籍したのが、若干30才の時。そしてトポリーノのパワートレインを開発して、一躍名を上げた。

軽自動車ほどのトポリーノは2+2で実質後席は荷物置き場だが、WWⅡ終戦以後の物不足時代、荷物置場にクッション置き幌天井から頭を出して窮屈姿勢からの開放という乗り方が流行った。

その辺をジアコーサは反省したのだろう、トポリーノの後継車開発の全てを任されて生まれたフィアット600では、大人用の後席を確保していた。

で、採用の斬新手がFRからRRへと180度の大胆な転換。が、WWⅡ前のVWビートル、戦後のルノー4CVなど、小さな車の居住空間確保に、RR(後エンジン後輪駆動)は優れた手法だった。

600誕生の55年、日本では戦前巨人軍在籍のスタルヒンが、戦後高橋トンボユオンズに移籍して、大映ユニオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)相手に、300勝という金字塔を立てた。

その頃ヨーロッパでは1?以下の小型車が激戦中。そこに登場した600は、斬新アルミヘッドの直四OHVで633cc22馬力。4MTに鞭を入れれば100㎞近い速度で巡航可能という高性能ぶりだった。

サイズを日本の軽自動車並と紹介したが、実寸法は全長3215㎜、全幅1345㎜、全高1345㎜、WB2000㎜。車重560kg。59万リラは日本円換算で34万2000円という安さから鰻登りに人気上昇。

57年に、600ベースの少し小柄な500が登場するが、これも人気者に。で、暫くするとイタリア全土、小型フィアットだらけになってしまった。

66年ローマの裏通りで撮影のフィアット600。ドア後開きの600三台他、屋根だけ見えるほとんどの車もフィアット・ローマ中フィアットの洪水だった